新実力主義

盛田昭夫著

本当の実力主義は
一人一人の人に「生きがい」を与えることであり
それを強めるあらゆる手だてをととのえなければならない
(『新実力主義』「新実力主義」より)

自由の二つの区分

ここしばらく、私は、「自由」についていろいろと考えさせられる機会が多かった。めでたく成人式を迎えられた皆さんにその一端をお話してみたい。

自由は、現代社会の根幹をなすもののひとつであり、お互いの自由を尊重し合って、それを大切に守り育てていくことは、いまなお非常に重要な課題なのではないか、と考えるからである。皆さんがこれまで過してこられた二十年間は、自由について、ごく基礎的・初歩的な知識と経験を修得するときではなかっただろうか。ひところ、日本ほど自由な国はないということがよくいわれた。しかし、その自由は私たちに何をもたらしただろうか。

自由は、まことに厄介なしろもので、あまりにそれに慣れて、お互いにそれを守っていく努力を怠っていると、いつのまにか、私たちの間からなしくずしに失われていくもののようだ。自由で快適にみえる現代は、実は、たえずこの危険にさらされている。

今の民主主義の世の中というものが、自由と平等を旗印として、歴史的にできあがってきたことは、くどくど申しあげるまでもあるまい。そして、真の自由は、お互いが平等・対等であってはじめて成り立つ。自由を考えてゆくと、必然的に平等にもたどりつくということになるだろう。身体の自由、飢餓からの自由、恐怖からの自由、言論・出版・思想・学問の自由、集会・結社の自由、職業選択の自由。
さまざまな自由が、私たちは憲法によっても保障され、自由経済とか自由恋愛とか、いろいろな分野に自由が氾濫し、社会常識化している。

たとえば、昨今、議論の焦点である学問の自由についてふりかえってみてもわかるように、それぞれが、長い由来・因縁をもっているわけで、人間の歴史は、一面、自由の解放の歴史ととらえることもできよう。

自由は、人間の英知によってはぐくまれ、数百年、数千年の長い時間のうちに、しだいに深められ、大ぜいの人びとに享受されるものとなったのである。古代社会にも、封建社会にも、今のような自由はほとんどなかった。「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたわらじをつくる人」といわれるように、それぞれの身分は固定され、職業は生まれたときから定められ、住居を思うままに移すこともできなかった。現代からは想像もできないような、不合理な束縛のもとに大多数の人びとがおかれていた。その束縛をなくして、自由をかちとるために、封建社会から現代にかけて、私たちの先達は、血みどろのたたかいをしなければならなかった。この時期に行なわれたいくつもの戦争には、直接自由の問題にかかわっているものが少なくない。

こうして、私たちに確保された自由は、なによりもまず、束縛がないことであった。さまざまな束縛からの自由であった。いわば、消極的な自由であった。ここに、新しい課題がたちあらわれる。さまざまな束縛から解放された個々人は、何をするのか、ということである。端的にいえば、「……からの自由」は、「……への自由」に直ちに受けつがれる必要があった。

束縛がないという「……からの自由」に対して、「……への自由」は、職極的に自己を生かす自由である。この区別は、大事なポイントだと思う。ただし、この二つの自由は、もともと表裏一体であるべきはずのものであり、このことに気づいた人びとによって、歴史的に、より多くの「……からの自由」がもたらされてきたわけであろう。大多数の人びとが、この区分に気づき、「……への自由」に関心をはらうようになったのは比較的新しいことではあるまいか。「……からの自由」だけに関心をもつ段階から、「……への自由」を同時にに志向する段階までには、一般的にいって、かなりの時間的なずれがあったといってよい。

いまや私たちは、ほぼ完全に近い「……からの自由」を手にしている。しかし、「 ……への自由」への関心は決して定着しているとはいえず、むしろ、それは今後の大きな課題として残されているように思う。

わがまま勝手は不自由をもたらす

自由の二つの区分と同時に、ここで考えておきたいことは、お互いにめいめいの自由を尊重し合うのでなければ、自由は空念仏に終り、非常な「不自由」を招くということである。

自由は、「リンゴが木から落ちる」というような真理でもなければ、絶対的な命令をくだしてくれる神のような存在でもない。先にも述べたように、自由な人間の英知の所産ともいうべきもので、人と人との間柄を規定するもの(関係概念)である。人間は決して一人だけで生きることはできない。どのような状況があるにしても、社会的な存在たらざるを得ない。

かりに猿の群れの中に放置され、猿のグループの中に一人だけまじって大きくなった人があったとしても、私たちは、彼を人間として扱うことができないだろう。すべての人間が、社会的存在でしかあり得ないからこそ、自由に意味があり、貴重なのである。

ところで、「……からの自由」だけに目を奪われている人びとは、しばしば、自由を、「わがまま勝手」と混同する。「オレは自由なんだ」は、そこでは「オレは、したい放題のことをやっていいんだ、好きなようにやるんだ」と同じ意味になってしまう。そして、この種の人びとに限って、自分の混同にはなかなか気づかない。自由と人権の思想が、責任をともなわないではびこったと思われる時期がつい先ごろの日本にもあり、いまだにそれが尾をひいていて、私たちが当惑させられることも少なくない。非常に危険なことだと思う。

専制君主のいた封建時代には、君主だけは無制限にしたい放題のことをすることができた。それは、同時に、とりまき連中はもちろんのこと、専制君主をのぞく他のすべての人びとに、無制限のはてしない束縛や隷従を強いることにほかならなかったはずである。正当な根拠もなしに生命を断たれた者も、一人や二人にとどまらなかった。今考えている自由という点からいえば、専制君主も、それに仕える人びとも、決して自由ではなかった。極論すれば、わがままな命令と盲従だけの毎日であった。

このことを、現代にあてはめれば、わがままや勝手がいかに自由でないかがはっきりする。すなわち、一人の人のわがまま勝手を許すことは、他の一人または大ぜいの束縛や隷従をもたらさずにはいない。それはまた、多くの場合、次々に連鎖反応を起こす。わがまま勝手とはきちがえられた自由は、こうして、想像以上に多くの人びとを不自由に追いやることになるであろう。真の自由を確保する、守っていく第一歩は、わがまま勝手を許さないことである。

反面、「……からの自由」と同時に「……への自由」をも正当にわきまえている人びとは、その周囲に、おのずと真の自由の種子を蒔く。自由は、自由を生みだしてゆく。ここでは、プラスの連鎖反応が期待できるし、自発的・積極的な人びとのグループができあがってゆくであろう。

念のために、わかりやすくいえば、「……への自由」を正しくわきまえるとは、自由をつねに責任と相即させて考えることといってもよい。自由には責任が影のようにくっついてゆく。責任をともなわない自由はない。自由を選択を予測する状況と考えれば、専制君主に隷従する場合には隷従する側には選択の余地はなく、したがって、責任ということは問題にならない。

しかし、自分の自由にすべてがゆだねられていれば、選択(たとえば、ある休日にボーリングをやるか、読書をするかというような場合でも)は自分が行なうわけで、その行為のもたらすさまざまな結果は、自分にはねかえってこざるを得ず、自分が背負ってゆかなければならないのは明白であろう。

現代には、あまりに多くの「……からの自由」があふれているため、それを持てあまして責任を忘れ、「わがまま勝手」の変種が次々にあらわれ、自由をおびやかしている状況も、少なからず見受けられるのである。

成人式 ― 積極的な自由への離陸

さて、人間は、この世に生をうけてから、ほぼ成人に達するまでの長い間、つぎつぎに束縛からの自由を味わいながら成長する。

生まれたての赤ん坊には自由はなく、母親の助けがなくては、自然や社会に適応してゆくこともできない。まったく母親に依存し、母親の選択(あてがいぶち)に従うのほかはない。しかし、数ヵ月たって、簡単な意思表示ができるようになると、いささか選択の自由、行動の自由を行使しはじめる。その領域は大きくなるにつれて次第に拡大され、個性も明確になってきて、十代の終りになると、母親とほぼ同等に近い自由を享受、行使できるようになることは、皆さんがちょうど経験しておられるところであろう。(他の動物とちがって、人間には、一生の四分の一以上もの長い準備期間があり、その間に他の動物にはみられない成長を遂げる。これは、おそらく、自由が人間だけに許されていることと深いかかわりのある現象に相違ない。)

多くの人びとが、「……からの自由」だけから、「……への自由」に同時に関心をもつまでには、先に述べたように、かなりの時間的なずれがあった。これとよく似た現象を、現代では、一人の人間の一生のうちにも観察できるのではあるまいか。皆さんは、すでに、ありあまるほどの「……からの自由」を受取ってはいるが、それが同時に「……への自由」に転轍されねばならないということには、やっとおぼろげに気づきはじめたという段階におられるのではないだろうか。

自由のありがたさや、それを享受する楽しさは、「……からの自由」ではなく、むしろ「……への自由」を待ってはじめて味わうことのできるものといってよい。「 ……への自由」を知らない「……からの自由」は、しばしば人を当惑させ、退廃や危険をもたらす。

成人式を迎えられた皆さんは、いよいよ、すすんで「……への自由」を引受け、お互いの自由を尊重しあう決意へと招かれているのだ。成人式は、「……からの自由」だけから「……への自由」に関心を移しかえる精神的な離陸のときでなくてはならないと思う。自由ということについて、改めて明確に考え、決意を新たにしていただきたいのである。

職業選択の自由 ― 創造力に生きるとき

いまや皆さんは、社会的に独立した立派な一個人として、あらゆることを自分の責任において「自由に」行なう権利と義務をもっている。さまざまな「……への自由」が、皆さんの選択を待っている。その一例として、最も重要な問題のひとつである「職業への自由」について、ここで簡単に私の考えを述べて結びとしたい。

生涯たずさわる職業を考えるにあたって、自分には、なんの才能もなく、また、あまりに未熟だと思っておられるかたがあるかも知れない。心配ご無用である。才能や能力ということばは、天才や優等生のためにあるのではなく、すべての人のために用意されている。さまざまな仕事について、だれでも、ある程度の好ききらいの区別はつけられるし、なにかしら自分の得意な作業は見出せるものだ。ただ、せっかちに、一度にすべてを決めてしまおうとしなければよい。職業選択の自由は、転職の自由でもある。若いうちに何度かやりなおす時があっても、それは決して恥ではなく、社会的には、むしろ歓迎されることなのである。

自分の能力や希望を冷静に見定め、それにしたがって、勇敢に自分の仕事を選び、仕事に挑戦してゆくという態度が、今までの日本には、あまりにも少なすぎた。できることなら、親方日の丸の官庁、失業のおそれのない大会社を選ぼうとする人があまりに多く、自分自身をよく観察もしないで乱暴に取扱い、自分を生かそうという努力は、二の次、三の次とされてきた。それでは、かけがえのない一生があまりにもみじめである。

実力主義ということが、やかましくいわれるようになったが、今までのところは、一部のエリートや優等生にとらわれ過ぎた議論が多かったように思う。そんな議論にまどわされてはなるまい。めいめい自分のペースを守って、得意な分野で着実に力をつけること、腕を磨くことこそ、真の実力主義だと考えたい。

自分の仕事を早くから決めて、まっしぐらにその道を歩む人もあろう。かなり長い間迷って、職を転々とする人もあろう。人さまざま、よし悪しをにわかにきめつけることはむずかしい。めいめいが自分の納得のゆく生き方をすることが肝要であろう。人手不足の日本では、これからますます職業選択の自由を行使できる余地が大きくなることと思われる。

職業は、社会と個人との結節点。社会の変革も、職業を通じてなされるとき、最も着実に行なわれうるだろうし、自由社会の味わいも、そこでひとつの頂点を示すであろう。

最後に未熟さについて……。未熟さは、いつでも若さと隣り合っている。それを自らに見出すとき、たとえいくつ年をとろうとも、人はつねに若い。だれが完全に成熟した人間であり得ただろうか。すこし飛躍することを承知でいえば、自由な人間とは、また、たえず自らの未熟さを感知する人間のことである。

 若い皆さんは、自分の目の前に、無限の可能性(「……への自由」)が開けていることを、素直に感じておられることと思う。自分は、まだまだ、どのような進路でもとれると考えておられるだろう。これこそ、若さ(未熟さ)の特権なのである。自由にあらゆる可能性を選びとることができる(柔軟性)こそは、同時に新しいものをつくりだすこと(創造性)に道を開く。皆さんも、くもりのない新鮮な眼をもち、得意な分野で、思う存分めいめいの創造力を発揮していただきたい。自由が、このことを可能にする。自由は、このように人間存在の根本にも深くかかわり、私たちの個性や自発性、創造力を発揮させてくれるのである。

社会はめまぐるしく変転し、皆さんがその主要なメンバーの一人となってくれることを今やおそしと待ちかまえている。皆さんが創造力を発揮する場は、ふんだんに用意されている。

成人式おめでとう。

お互いの自由を尊重しあい、自分に与えられた自由を十分に生かすことによって、充実した人生を展開されるようお祈りする。

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盛田昭夫 著「新実力主義」より - 一度しかない人生で、自分の道は自分で選ぶ権利と責任があるのである。適所は、自分自身で見出すものだという意欲を持ってもらいたい。イラスト:イワタニユウスケ
盛田昭夫 著「新実力主義」より - 『生きがい』とは、働きがいのある場所(自分の才能を充分に発揮できてそのことが他の人のために充分に役立つ場所)を得ること。イラスト:芦刈将
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