名古屋から南に伸びた知多半島。その伊勢湾側にある小鈴谷村には、日本を代表する世界企業の「トヨタ自動車」と「ソニー」、そして日本人の食糧問題解決の一助をなした「敷島製パン」を生んだ『核』がある。
だがその事実は中部地方はおろか、知多半島に住む人々にもあまり知られていない。
トヨタ自動車とソニーと敷島製パンの創業期を探っていくと、この三大企業には切っても切れない深い人間的なつながりがあることがわかる。
それは創業期の苦闘を乗りきった三人の人物にいきつく。
一人目はトヨタ自動車の「大番頭」と呼ばれた石田退三である。
豊田自動織機の社長であった石田は、昭和二十五年にトヨタ自動車が倒産の危機にみまわれた「トヨタ危機」のとき、トヨタ自動車の社長となって倒産の危機を乗り越え、世界のトヨタの礎を築いた中興の祖である。
石田は知多郡小鈴谷村大谷(現常滑市)で生まれた。生家は先祖代々の農家で、小さい頃から負けず嫌いの腕白であった。伊勢湾に面した小鈴谷村は、対岸のかなたに鈴鹿の山々を望み、その山なみに夕陽が落ちるころには、伊勢湾が美しい黄金色に照り映える。
少年時代を温暖で美しい小鈴谷村ですごした石田は、綿糸・綿布の商社勤めをへて豊田自動織機に移り、トヨタ自動車が世界に羽ばたく磐石の基礎づくりをした。
二人目は敷島製パンを創立した盛田善平である。
善平も小鈴谷村で生まれ育ったが、二十四歳のときに半田の「ミツカン酢」の当主の中埜又左衛門の依頼でビール醸造に乗り出した。
苦労の末に「カブト・ビール」の売り出しに成功した善平は、やがてドイツ人技師を雇って製パン業界に乗り出していく。
三人目はソニーの創立者の盛田昭夫である。
知多半島の小鈴谷村で、江戸期から三百五十年以上続く造り酒屋盛田家の十五代目として生まれた昭夫は、終戦後まもない東京で、
「人は得意なことをやるのがいちばん強い。私は電子工業(エレクトロニクス)の会社をつくり、自分達しかできない仕事をやる」
と考えて井深大と東京通信工業(現ソニー)を興して、最初の製品である紙製のテープレコーダーを作った。
世間の評価はさんざんだった。人の声を紙テープにとって聞くのはおもしろい。だが電気のおもちゃにしては高すぎると酷評されて、紙製のテープレコーダーはまるで売れず、会社は資金的な危機に直面した。
その後、トヨタ自動車とソニーは世界企業に発展し、敷島製パンは日本で確固たる地盤を築いたが、石田退三と盛田善平、そして盛田昭夫の三人に、一体どういうつながりがあるというのか? ……
それは小鈴谷村の『教育』にいきつく。
明治維新を迎えたとき、小鈴谷村の庄屋を代々つとめる盛田家十一代目の久左衛門(のちに命 祺)は、これからの日本人は教育が必要だと考えた。
「このひなびた田舎の小鈴谷村にも、やがて時代の波は押し寄せてくる。それを先取りするのは学問しかない」
そのとき命祺(めいき)の頭に浮かんだのは、伊勢神宮神官の息子の溝口幹であった。幹は伊勢では評判の秀才として知られ、性格も温厚な若者で、教育者としての資質を備えていた。
明治五年に命祺は幹を小鈴谷村に招いて、鈴渓(れいけい)義塾を創立して知多半島の子供たちの教育を始めた。
盛田昭夫の四代前の当主である命祺は、志と情熱をもった有徳人として知られ、貧しい子供に学費を援助して、知多半島の教育向上に尽くした。
命祺からすべてを託された幹は、期待どおり鈴渓義塾で学問を教えながら、教育を通して人的資源を育てはじめる︒
鈴渓義塾の歴史は、明治五年に学制がしかれたとき、小鈴谷村郷学校として産声を上げて、同二十一年に私立鈴渓義塾となり、のちに鈴渓高等小学校になった。これらを総括して「鈴渓義塾」と呼び、一貫して幹が塾長(校長)を務めた。
命祺と親交があった福沢諭吉の慶應義塾と較べると、鈴渓義塾は現代の小学校高学年から中学校低学年の少年少女の教育の場であった。
にもかかわらず教育内容は抜群に高く、文明開化を迎えたばかりの日本の田舎の小鈴谷村で、いまの高校に匹敵する英語、数学、理科、国文、漢文、簿記、体操などを教えた。
英語は高等小学校では必須科目に入っていなかったが、一年時(現在の小学五年生)に学習が始まっていた。また体操の時間には、当時ほとんど行われなかった野球も教えていた。
ある新聞社の取材では、鈴渓義塾のあった小鈴谷村を『尾張の教育村』としたうえで、『お百姓の老人でもかなりの英語が出来、数学、国語にいたるまで達者だという珍しい農村がある。それが小鈴谷村で、村には明治五年から立派な学園があった』
と鈴渓義塾の学風を伝えている。
鈴渓義塾の卒業生である石田退三の『商魂八十年』には、鈴渓義塾の高い教育内容が記述されている。
『(前略)……私には一つの郷土自慢がある。それは当時としては、いわば「知多郡の最高学府」とも称すべき高等小学校が、わが小鈴谷の地に所在していたことである。子供心にもこいつばかりは大いに自慢したものである。
小鈴谷村は古くから造り酒屋(子の日松)があり、当時の主人の盛田久左衛門は資力と見識があり、明治初年に伊勢から溝口幹先生を招いた。そして鈴渓義塾と呼ぶ私立学校を開き、地方青少年の育英指導にあたらしめた。それが鈴渓高等小学校になり、知多全域の進学少年はすべてここに集まった。
実際のところ、その頃の高等小学校は、今日の大学にも勝るエリート意識が強く、教育の程度も高かった。国語、理科、漢文はもちろん、数学は代数、幾何に及び、英語は英文法とナショナルリーダーの第四巻であり、他には法制・経済という科目まであった。
創立以来の溝口校長はまことに立派な教育者で、国漢文はもちろんのこと、神官出身に珍しく数学に強く、ドイツ文法から物理学まで堪能であった。私はのちに滋賀県立一中に入学するが、教育内容が鈴渓義塾の復習にも似た感じで、おかったるく感じたのを覚えている。それ一つを見ても鈴渓義塾の教育内容の高さが証拠立てられる。(後略)』
その当時の教科書が、いまも小鈴谷小学校に保存されている。英語も数学もすべて墨書された教科書を見ると、驚くべき高いレベルの教育がなされていたことがわかる。
鈴渓義塾の教育程度が高かったのは、塾長の幹の力によるが、幹は学問だけを教えたのではない。教育者として自分はどうあるべきかを考えて、人徳の高さで生徒を導こうとした。
のちに「標準語の父」と言われた文学博士の石黒魯平は、恩師の幹をこう評している。
「私は明治三十年から三年間、鈴渓高等小学校の溝口先生の許に通いました。いたずらをすると大きな扇子を振って『いかん、いかん』と叱るばかりで、何の文句も仰せられなかった。(中略)……私は先生の著書によって幾何書法を学び、先生の御指導で物理化学の実験を行し、先生の御方針によってナショナルリーダー第四巻まで学びました。
これらはその後世に出てみて、非常に高い、非常に進んだ教育であったと思わざるを得ないものであります」
石黒魯平は幹の海のように大きな人格と、その高い教育内容を賞賛している。
石田退三と盛田善平は鈴渓義塾で学んで、実業界で大きく羽ばたいた。他には文部省の事務次官として教育改革に尽力した伊東延吉、戦艦大和の第五代艦長の森下信衞など多数の人材を輩出した。
鈴渓義塾で熟成された「教育」の空気は、隣りの常滑に伝わった。そこから哲学者の谷川徹三、東京電力会長で経団連会長を務めた平岩外四、東芝会長の岩田弐夫などを輩出した。
教育は一朝一夕にできることではない。知多半島という土壌にまかれた教育の種が、長い時をへて地上に芽を出す。
目を東海市に移してみる。江戸時代に平島村(東海市)から、細井平洲という偉大な学者が生まれている。
細井平洲はアメリカ元大統領のJ・F・ケネディが尊敬した上杉鷹山の学問の師である。平洲は学問によって人を育て、善政を扶けた実学の人である。
江戸時代に東海市から生まれた平洲の教育の核=種は、時を経て鈴渓義塾で芽を出し、そののち各界で大きな花を咲かせた。
命祺は長州の松下村塾の品川弥二郎、井上馨らとも親交があった。明治維新の起爆剤となった松下村塾に比しても、鈴渓義塾は経済面と文化面で、それに匹敵する足跡を刻んだ塾だと言って過言ではない︒
現在は日本人がやや自信を喪失している時代である。こういう混迷の時代こそ、鈴渓義塾から育った知多の偉人たち、あるいは近隣から世に出た先人たちの歴史を、これから始まる物語の中に見いだして、いまいちど勇気と志と情熱をもってもらいたい。